北恵那鉄道
北恵那鉄道が走っていた付知川流域は「裏木曽」と呼ばれ、隣接する木曽と並ぶ高級ヒノキの名産地です。
古来より裏木曽地域で伐り出した木材は付知川、木曽川を経由し名古屋まで川流しにより運んでいましたが、 木曽川の水力発電ダム建設により木材の流送ができなくなるため、 その代替輸送機関として中津川〜付知に電気鉄道を敷設することになりました。
大同電力大井ダム建設の補償ということで、初代社長には電力王福沢桃介が就任。 1924(大正13)年8月5日に中津町〜下付知22.1kmが開業。 当初は付知町(現在は中津川市に合併)の中心地まで延長する予定でしたがこれは実現を見ていません。
また、大井ダム建設専用鉄道を譲り受け、大井線(恵那〜奥戸)としてガソリンカーを運転しましたが、 こちらは上手くいかず、1934(昭和9)年に廃止になっています。 昭和30年代までは貨客とも活況を呈し、恵那電(エナデン)の愛称で親しまれていましたが、 モータリゼーションにより急激に経営が悪化。 1972(昭和47)年1月21日のダイヤ改正では電車の運行を朝夕ラッシュ時のみとし、日中はバス代行に。 しかし経営合理化でも赤字解消には至らず、1978(昭和53)年9月18日に廃止になりました。 →地図


JR中津川駅の北側、 駅前からガードをくぐった北側にJRと北恵那鉄道の連絡線跡が保線車両の資材搬入口として残っています。 ここをデキや電車が貨車をつないで行き来していたのでしょう。この連絡線33.3‰(1kmで33.3m上る斜度)の急坂だそうです。 中津町駅跡は北恵那交通や王子板紙(当時は中央板紙)の駐車場に。途中から先は立入禁止とのこと。
末期の貨物はほとんどが中央板紙に出入りするもので、在籍していたデキ251も中央板紙の構内入換程度しかしていなかったそうです。


1998年まで残っていたク551の廃車体。
愛知電気鉄道(名鉄の前身)の電4型(→モ1040型→ク2040型)。 日本車両製の木造電車ですが名鉄時代に外に鉄板を貼り偽スチール化してあります。 廃止前はあまり使われることなく側線で昼寝ばかりしていたそうで、廃車後も台車だけ抜かれて元の側線の場所に居座っていましたが、 残念ながら火災で焼失してしまったそうです。
1996年撮影
中津町駅を出ると構内を抜け切らないうちから中津川(市の名称ではなくて川の名前です)へ向けての25‰の下りが始まります。 現役時も駅構内下付知側にあった車庫と本線は既に結構高低差が付いていたようで、線形がタイトな山岳路線であることが窺えます。





竹林の切通しはレールを撤去しただけ。
上に落ち葉が堆積したようで枕木や犬釘がところどころ顔を覗かせます。
第1中津川橋梁。橋脚部分には鉄製架線柱の付け根が傾きながらも残っています。 廃止後、上に道路橋が架けられ、川の上で立体交差してるような光景になっています。


沿線のあちこちに見られる用地境界標。「北恵那鉄道」の文字部分は白地がやけに綺麗です。 廃線跡を利用した農道が尽きると藪の中。護岸の石垣が鉄道の存在を窺わせます。


第2中津川橋梁。 やはり立派な石積みの橋台、橋脚に橋桁もしっかり残ってますが下付知側の橋台は大きく抉り取られています。

こちら廃線跡としてははかなり有名な木曽川橋梁。 全長134m、ガーダー橋とトラス橋で一気に中津川と木曽川の合流部を渡る光景は正に圧巻の一言。 惜しむらくは電車が来ないこと。(T T)


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