岐阜の専売公社、ニチボー専用線
1.専売公社名古屋地方局岐阜工場専用線
当初は上毛モスリンが工場を建設しましたが1916(大正5)年に日本毛糸(ニッケの子会社)に買収されます。 1918(大正7)年には日本毛糸が親会社のニッケと合併、同社の岐阜工場となりました。
1923(大正12)年の工場構内図では線路周りに石炭置場があり、原料の羊毛のほか燃料の石炭を無蓋車で輸送していたようです。
1926(大正15)年1月21日には各務原鉄道(現名鉄各務原線)の安良田(後に廃止)〜補給部前(現三柿野)開業、鶴田町信号所で平面クロスすることになりました。
太平洋戦争中には他の多くの繊維工場と同じように軍需工場へ転用され、工場ごと1942(昭和17)年11月に川西機械製作所へ貸し出し、1943(昭和18)年に譲渡しています。 当時は通信機を製作していたということです。
1945(昭和20)年7月9日の岐阜空襲ではこの工場が標的となり、岐阜の町諸共焼失し敗戦を迎えました。
戦後工場は焼けたまま放置され、跡地に専売公社が進出。 1949(昭和24)年5月日本専売公社名古屋地方局岐阜分工場(6月に「分」が取れて岐阜工場へ)となります。 専用線も復活してたばこの原料・製品輸送に使っていたようです。
その後、工場近代化のため1964(昭和39)年より大規模な改築工事が始まります。 専用線が使われなくなったのもこの頃でしょう。
当時の動きを示すと以下の通りです。

 1965(昭和40年)3月    暫定工場に移転(専用線使用停止?)
 1966(昭和41)年3月    新工場1期工事完成
 1966(昭和41)年8月    新工場2期工事(専用線撤去)
 1966(昭和41)年10月6日 鶴田町信号場廃止

2.ニチボー岐阜工場専用線
1920(大正9)年に敷設された日本絹毛紡績岐阜工場専用線が前身。 日本絹毛紡績は1923(大正12)年に大日本紡績(後にニチボー→現ユニチカ)に合併し、同社岐阜工場となっています。 絹糸の紡績工場でしたが毛糸(梳毛)紡績にも進出しています。
戦時中はこちらも工場を軍需転用され川崎航空機田神分工場になっていました。 岐阜空襲ではすぐ傍の川西機械が真っ先に標的にされ、そこから中心市街地へと焼夷弾が落とされてますが、こちらは市街地と反対側なので被害が軽微だったのでしょうか? 1945(昭和20)年9月には川崎航空機から返還を受け12月より紡績工場に復元開始と比較的順調に進んでいます。
専用線の方は専用線一覧上で1964(昭和39)年版では使用休止となっており、1967(昭和42)年版ではなくなっています。

作業キロは両線とも1953(昭和28)年版までは1.1q、1957(昭和32)年版以降は0.8qとなっています。 0.3km減っているのは線路が廃止されたという意味ではなく側線の国鉄管理範囲が拡がり荷主管理範囲が短縮されたという意味ではないかと思います。
地図


東海道、高山本線の分岐点。 左の車が止まっている敷地が専用線跡。 因みに中央に見える高架下の空間は高架化工事中に地上時代の東海道本線が高山線の高架を潜っていた跡。 専用線は竜田町6丁目交差点を斜めに横切り、向かいの跡地はマンションと自動車の販売店に。 この斜めに建つマンションは東海道線の車内からもよく見えるので車中から専用線跡を目で辿るのに格好の目印になります。


マンションの裏は二又に分かれる公園。左に緩やかにカーブするのが専売公社線、右方向へ曲がるのがニチボー線です。 当時はこの辺りに分岐器があったものと思われます。
まずはニチボー線へ。左に見えているのはさっきの斜めマンション。 因みに社名は専用線使用休止の頃と思われる1964(昭和39)年に大日本紡績からニチボーへ変わってますがこのページではニチボーとしてます。


公園を抜けるとカーブ線形そのままの道路と敷地。左の道路沿いの敷地が専用線跡のようです。 当時は路地裏軌道風だったのでしょうか? 左の倉庫と壁が専用線沿いに相応しい雰囲気。 この先すぐの工場跡はニチボーの後身ユニチカもなくなりマンションや宅地、スーパー等になって跡形もありません。


一方の専売公社線。各務原線と平面交差していた鶴田町信号所跡。 右が岐阜駅方です。
左のフェンスと万年塀の間が専用線跡。 電車から見ると今でも信号所の建屋土台などが見られます。
5000系電車の先頭辺りが平面クロス跡。 ここを国鉄蒸機が貨車を引き連れ横断していました。 この辺は美濃町線が乗入れていた頃は鉄道線を行く路面電車用車両を撮影しによく通ったポイントなのですが・・・。


名鉄各務原線にとっては新岐阜(現名鉄岐阜)〜田神の本線上で平面交差することになってしまうので交差地点に鶴田町信号所が置かれていました。 専用線の平面クロス直前に脱線転轍機が置かれ、誤って車両が交差部に侵入しないようにしていました。 「戦後を走った車両たち(名古屋鉄道編)」に当時の岐阜駅側の脱線転轍機の写真が写っていますが、各務原線を挟んで工場側にもあったはずです。
鶴田町信号所の信号機・分岐器扱いは名鉄職員が行っていたと思われますが新岐阜駅か田神駅から入換の時間になると出張して来たのでしょう。
話が脱線しますが名鉄築港線と名古屋臨海鉄道東築線の平面交差も臨海側の列車が通るときは名鉄の職員さんが大挙してやって来て信号・分岐器扱いや交通整理に当たっていますね。 そこまで仰々しくはないにしても似たようなイメージでしょうか。


各務原線交差の先にはこんな良い雰囲気の倉庫が。 この裏手(奥に見える住宅の場所)が専用線跡です。 かなり古い枕木が転がってますが専用線のもの??
蒸気機関車や黒い貨車が並ぶとよく似合いそうな味のある倉庫ですね。
周囲は全く変わってしまっているのでしょうがこの倉庫だけ当時の面影を色濃く残してます。 ここで振り返るとそこはもう工場・・・とは言え現在は専売公社→JTでもなく、系列の別会社が入ってます。 積込ホームはありますがトラック用の新しいものです。


機関車は国鉄機が使われておりスイッチャーはなかったようです。 岐阜駅では貨車の入換に美濃太田機関区のC50が使われており、当専用線にもC50が入線していました。
そこで現在保存されている機関車の中で専用線現役当時美濃太田区配置のものを探して見たら該当機がありました。
焼津駅近くの小石川公園で保存されているC50 96号機(1929(昭和4)年 日本車輌製)は1955(昭和30)〜1966(昭和41)年の間美濃太田機関区に所属していたということから、 当専用線にも入線していたのではないかと推定されます。


参考:日本毛織百年史(日本毛織 百年史編纂室)
 ユニチカ百年史(ユニチカ)
 名古屋鉄道百年史(名古屋鉄道刊)
 岐阜工場三十年のあゆみ(日本専売公社岐阜工場)
 戦後を走った車両たち 名古屋鉄道編(渡利 正彦著 岐阜新聞社)
 専用線一覧表(日本国有鉄道貨物局)

撮影日 2012.12.02
2012.12.23

戻る

inserted by FC2 system