養老線の専用線 |
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1964(昭和39)年3月10日に桑名駅大垣寄り僅か700mの場所に東方貨物駅が開業。
住友セメント(現住友大阪セメント)桑名SS(サービスステーション)専用線を分岐させるため置かれた貨物駅です。 専用線は延長0.4kmで、同年新製の日立15t機を1台配置。 近鉄に車籍がありDB90形DB91という立派な形式番号を与えられていました。 新製時にはD101という番号があったようですが、後年車籍が与えられて車籍DB91となったのか、近鉄と住友セメントで番号が2本立て(?)だったのかは不明。 セメントは主に本巣の同社岐阜工場から到着していたものと思われます。 養老線の貨物営業末期まで残っていた大垣〜東方(貨)の輸送ですが1985(昭和60)年頃に廃止されたようで、DB91も1986(昭和61)年5月9日に廃車となっています。 |
東方操車場の東側に今もサイロやタンク車から荷卸ししていた上屋が残っています。 | 養老線から分岐していた側線は撤去済みでコンクリ舗装が成されています。 |
桑名駅寄りにはスイッチャー庫らしきものも残っていますが近付けないので不明。 | セメント荷卸し場の上屋を後方から見た様子(近鉄名古屋線電車内から撮影)。 |
住友セメント桑名SS専用線の車輌 | |
廃止後本巣の住友セメント岐阜工場専用線に移ったDB91。
本巣では主に35、45t機が使われており15t機は工場内の入換専用という感じでした。
貫通ブレーキがないので本巣駅までの専用線本線(?)運用に就くのは無理だったと思われます。
しかも撮影時にはもう1台の15t機が飛騨一ノ宮から移ってきており、DB91は構内のどん詰まりで放置状態。
現役時代の様子は奥野さんの奥野君の専用線日記で見ることができます。 何時しかこの場所にも新しい建屋ができて見えなくなりました。 処分されたのか何処かに引き取られたのかは不明です。 撮影日:2002.04.13 住友大阪セメント岐阜工場専用線 根尾川堤防道路上より |
駒野駅に隣接する新内外綿の工場(現在は子会社のナイガイテキスタイル)へ延びていた0.1kmの専用線。
貨車の移動方法は機関車使用でなく手押し。 1933(昭和8)年に城山村(現在は海津市)が東海毛糸の工場を誘致・建設が始まりました。 翌1934(昭和9)年10月31日に当時の伊勢電気鉄道より東海毛糸専用線新設による駒野駅配線変更届けが出ています。 専用線は原料の羊毛(恐らく四日市港で陸揚げされて貨車積み)を搬入していたものと思われます。 戦時色が濃くなった1941(昭和16)年、経済統制により東海毛糸は大日本紡績(現ユニチカ)と統合、同社の駒野工場に。 さらに軍需転用で翌1942(昭和17)年には東洋ベアリング駒野工場となっています。 戦後は1948(昭和23)年に繊維工場へ復元、新内外綿の綿紡績工場となりました。 再び繊維工場として操業していましたが原料の鉄道輸送は1960(昭和35)年頃から徐々にトラック輸送に移行していったそうです。 専用線一覧表では1970(昭和45)年版まで記載が見られ、1975(昭和50)年7月10日には駒野駅の貨物取扱が廃止されています。 |
大垣方から見た駒野駅。 レールは残っていませんが、3号線(一番右の線路。かつては貨物列車待避線だったと思われ)から右の工場へ専用線が入り込んでいた部分はフェンスを立てただけ。 | ホーム上から見た専用線分岐跡。 ツタが絡む渋いのこぎり屋根の下には貨車の待避スペースがあります。ここに貨車が潜んでいる風景を見たかった(><) |
万年塀の向こうには貨物ホームが当時のまま残ります。
ここだけ見てるとまるで昭和中頃の風景・・・と思いきやホーム上を新しそうなリフトが突っ走って行きました(^^;) リフトが通り易いようにホームを拡げてあるようです。 |
養老線で最も角ばった車体の持ち主625系が到着。結構貨物ホームは長かったようです。 これで本当に貨車の移動は手押しだったのでしょうか?? 到着車は突放で押し込み、発送車は他の駅で繋いだ貨車を控え車代わりにして引っ張り出していたのかも。 |
工場の周りを歩いてみるとなかなか良い雰囲気。 近代化遺産として残したいものがそこここに。 特にお気に入りなのはこの天を突く大煙突。 右にある短いのは煙突ではなく給水塔か何かと思われます。 |
参考: | 鉄道史料 伊勢電気鉄道史(上野結城著 鉄道史資料保存会) |
養老線開通70年のあゆみ(近畿日本鉄道西大垣駅編集) | |
南濃町史 通史編(南濃町) | |
ユニチカ百年史(ユニチカ) | |
専用線一覧表(日本国有鉄道貨物局) |
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