第二海軍航空廠鈴鹿支廠、三菱重工業三重工場専用線
→呉羽紡績鈴鹿工場専用線
●軍都鈴鹿市の誕生と軍用線
三重県鈴鹿市は元々農漁村地帯でしたが1938(昭和13)年に鈴鹿海軍航空隊が置かれ第一、二鈴鹿海軍航空基地と航空機を供給する第二海軍航空廠鈴鹿支廠(以下 二空廠)及び三菱重工業三重工場ができました。 軍属や工員の流入で人口が急増し、1942(昭和17)年12月1日には町村合併で鈴鹿市が誕生しています。 三菱重工業三重工場では名古屋や三重県内で製造された航空機部品を組み立て海軍航空隊へ完成機を納め試験飛行を行っていました。
軍用線は二空廠内の三菱重工業名古屋航空機製作所鈴鹿整備工場(以下 整備工場)と三菱重工業三重工場(以下 三重工場)への資材搬入のために関西急行電鉄(現・近鉄)名古屋線白子駅から敷かれていました。 二空廠や三菱重工業三重工場は1945(昭和20)年8月15日の敗戦と共に機能停止。 軍用線も進駐軍が接収していたものと思われます。

●戦後復興と軍用線の再利用
戦後軍需産業の無くなった鈴鹿市は企業の呼び込みを行います。 旧工廠跡地に工場を誘致し軍用線も活用しようと思ったようです。 占領下の1949(昭和24)年6月25日にGHQ三重軍政部より鈴鹿市長名義で旧・軍用線の払い下げ許可を受けています。 鈴鹿市長には鉄道営業免許がないため運行は近鉄が監理する取り決めとしていました。 旧・三菱重工三重工場に呉羽紡績(現・東洋紡)が鈴鹿工場を新設することになり、1951(昭和26)年1月31日に軍用線を再利用した3,114m(蒸気動力)の専用線新設が大阪陸運局より認可されました。 認可後まもなく動力を蒸気、内燃併用と変更し、後に内燃のみと変更して申請し、最終的には内燃(ディーゼル)のみ使用となっています。 加藤製作所製10tディーゼル機関車DB101を新製配置し白子駅構内、構外側線の入換に使用していました。 専用線廃止時期は分かりませんが、1959(昭和34)年9月の伊勢湾台風からの復旧工事と合わせて行われた名古屋線改軌以前に廃止されたようです。
地図


近鉄名古屋線白子駅の貨物側線跡と思われる場所。 かつては近鉄名古屋線内では貨物扱い量が多い駅で、1951(昭和26)年度の扱い量は以下の通り。
・車扱い
発送:5,388.0t、到着:27,463.0t
・小口扱い
発送:415.8t、到着783.6t
元々白子は港町で駅の東側(海側)に市街地があり工廠のある西側は田園地帯でした。 戦後こちらも開発されて専用線分岐の跡は何も残っていません。 イオン白子店(中央の白い建物)の辺りで左方向に分岐していたものと思われます。
その先も国道23号線合流までは宅地化で専用線跡の区割りさえも残っていません。


国道23号線と合流した専用線は鈴鹿警察署を過ぎる辺りまで並走していました。 国道1号線(東海道)と鈴鹿を結ぶためにつくられた海軍道路がルーツの国道23号線。 誕生の経緯は専用線と同じですが戦後の扱いはまるで違いますね。 歩道付近が専用線跡と思われます。 専用線は鈴鹿警察署の先で国道23号から東へ離れて独立した道路になります。 大部分は何の変哲もない路地なのですがフジクラ(旧・藤倉電線)鈴鹿工場前の専用線分岐点には路盤が現れます。 左にカーブする道路は二空廠内の整備工場、直進する路盤は三重工場へ続いていた線路跡です。



三重工場へ続く路盤にはコンクリート製の暗渠が残っています。 枯れ草でごちゃごちゃしていた冬場より夏場に撮った写真の方が分かり易かったので2012.07.26に撮影したものを載せます。 小さ目の玉石をコンクリートに練り込んだ翼壁のつくりは近鉄名古屋線沿線でよく見かけます。


まずは三重工場への線路跡を辿ります。路盤が残っているのは田古知川まで、特に橋梁跡も残ってません。 この先は再び道路化されています。 住宅街の路地と化しています。この辺も専用線現役時は一面の田園地帯に線路が延びていたと思われます。 時折住宅街の切れ目から田園風景が垣間見える箇所も有ります。


第二海軍航空廠鈴鹿支廠、三菱重工業三重工場専用線2へ 廃線奇行へ

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