トヨタ自動車工業元町工場専用線
名古屋鉄道三河線の土橋駅から分岐していたトヨタ自動車元町工場の専用線。 専用線一覧表作業キロは3.0qとなっていますが駅から工場内の終点までの実質距離は2qくらいでしょうか。
●東海飛行機挙母工場
戦時中の1942(昭和17)年8月、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車、以下トヨタ自工)は川崎航空機(現・川崎重工業)と共同で東海航空工業(既に同名の会社が存在していため、1943(昭和18)年8月18日に社名を東海飛行機に変更)を設立し航空機用エンジンを製作することになりました。 航空機増産を必要としていた陸軍航空本部の要請によるものでした。 挙母町(現豊田市)土橋の衣ヶ原飛行場の隣に66万uの土地を確保し挙母工場を建設。 全体の工事は途中ながら鋳物工場が完成するとエンジンの製造が始まりました。
ところが1944(昭和19)年12月7日に発生した東南海地震により被災した海軍用航空機工場の愛知航空機を挙母工場へ移転させる話が出ました。 こちらは海軍と仲の悪かった陸軍の抗議で実現しなかったのですが、同年12月13日に三菱重工名古屋発動機製作所が米軍機の猛爆を受け壊滅したため挙母工場に移転することになりました。

●トヨタ自動車工業元町工場の建設
1945(昭和20年)8月15日の敗戦と共に存在理由を失った工場や飛行場は国有地となり放置されていました。 東海飛行機は戦後自動車部品の製造に業種転換し2015(平成27)年現在もアイシン精機として盛業中です。
一方でトヨタ自工は1958(昭和33)年に国有地となっていた東海飛行機挙母工場跡の払い下げを受けて元町工場の建設を開始。 用地の選定理由の一つとして戦時中専用線工事が進んでいたことがありました。 自動車メーカーとは言え原材料輸送にはまだ鉄道輸送が必要とされる時代でした。
元町工場は1959(昭和34)年9月に第1期工事が完成し乗用車の生産が始まっています。 延べ4qに渡るコンベアや工業用テレビカメラを利用した生産ラインの集中管理など当時最新の設備を備えた国内最大の乗用車量産専門工場でした。

●専用線の貨物輸送
専用線は直流1500Vで電化され、土橋駅から工場までは名鉄電機が貨車を牽いて乗り入れ、構内入換はガソリン・ディーゼル機関車を使用していました。 工場内の様子は分かりませんが、貨車上部からクレーンで積み降ろすものもあるため着発線以外は架線を張っていなかったのかも知れません。 入換機関車は近くの本社工場との間で転属もあったようですが、1959(昭和34)年9月の第1期工事完成前にDB-12(1959.3 加藤製作所)、1960(昭和35)年8月の第2期工事完成前にDB-31、DB-32(1960.3 日本輸送機)が新製されています。 1971(昭和46)年頃にはGB-11DB-31がいたようです。 貨車もユニークな試作車が出入りして材料、製品輸送が行われましたがモータリゼーションが盛んになればなるほど専用線による貨物輸送は衰退し1974(昭和49)年に使用停止となったようです。
なお土橋駅の貨物扱い自体はその後も1983(昭和58)年まで続いていました。 →地図


橋上駅舎化された土橋駅。 豊田線・名古屋市交鶴舞線乗入れ用の100,200系留置線となっている側線はかつての貨物側線。 だるま転轍機やチョック付きのか細いレールに貨物側線の面影が残ります。 左端の側線に面してかつては貨物ホームと倉庫が建っていたようです。

駅舎は新しくなっても知立方には木製架線柱も残っていたりで新旧カオス状態。 土橋駅のホームは2面3線ですが待避線を1本増設できるようになっています。 知立〜豊田市間の複線化も計画されているようで今後どのように変わるか



専用線は猿投方から分岐していました。 正面の安全側線と手前の草むらが専用線分岐跡と見られます。 道路を横断した先は工場が建って面影なし。 ガードレールが置かれている部分が専用線跡のはずです。


専用線が分かれていく線形そのままに工場が建っています。 壁の手前が専用線の跡左に三河線の架線柱と土橋駅上り場内信号機が見えてますね。 逢妻男川沿いに対岸を築堤で登っていたのですが工場敷地に取り込まれてます。 上に見える高圧線は専用線跡に鉄塔を建てているので遠くからでも目印となります。


国道155号線と逢妻男川を渡っていた跡は2005(平成17)年の愛知万博に伴い道路拡幅と川の流路変更が行われて何も残っていません。 20年ほど前には国道上の橋桁こそ無くなっていたものの築堤上の線路と架線がしっかり残っていたのを見ています。 元町工場の南側に隣接した枝下用水緑道から見ると工場の南東角にかつての鉄道門が残っています。


門の下からはレールまで突き出してます。工場敷地内には線路が一部残っているようです。 枕木はPC枕木で、現役当時は三河線よりも上等な線路が敷かれていたようです。本線がヘロヘロで専用線がガッシリしているとは何とも妙な感じ・・・。 架線柱も何本か建っているのが見えてます。 ここだけ20年前に見た廃線跡の雰囲気そのまま。世界のトヨタの構内にこんなものが残っているのもまた一興。 春には桜並木をバックに架線柱が並んでいるのが見られそうです。


トヨタ自動車工業元町工場専用線に乗り入れた試作貨車
1961(昭和36)年より生産された小型乗用車「パブリカ」輸送用として1962(昭和37)年に日本車輌で製作した車運車。 当初は大物車の形式シム1000形を名乗っていたのが1965(昭和40)年にクム1000形へ改番されています。 国鉄と名鉄三河線の接続する刈谷駅常備となっており、土橋〜刈谷〜芝浦で運転されていたようです。 1963(昭和38)年より使用されましたが積み降ろし作業にはクレーンが必要な上に6台しか積載できないため量産には至りませんでした。 元町工場の沿革によると同工場でのパブリカの生産は1968(昭和43)年1月に終了して高岡工場(豊田市高岡)へ移管しており、同時に失職したものと見られます。 廃車は1968(昭和43)年11月。 1966(昭和41)年に汽車会社製の鋼板輸送用貨車ワキ9000形。 姫路の富士製鐵(現・新日鐵)広畑製鉄所から自動車用鋼板の冷延コイルを輸送していました。 広畑製鉄所専用鉄道が分岐していた播但線飾磨駅常備で京浜東北線103系などと同じスカイブルー塗装が目を引きます。 冷延コイルをクレーンで積み降ろしするため側面が全面開閉可能、天井も両開き式になっていました。
ワキ9000,9001号の2両が製造され、元町工場専用線廃止後も長く使用され1995(平成7)年まで現役でした。 1978(昭和53)年には塗装が鳶色になり見た目はワキ5000とあまり変わらなくなってました。 末期は名古屋臨海鉄道東港(新日鐵前?)〜東三条で後継のトキ21500と共に使われており管理人も北陸本線で見てるはずなんですが覚えがないなあ・・・(^ ^;)


参考:専用線一覧表(日本国有鉄道貨物局)
 トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業株式会社社史編集委員会)
 豊田市史(豊田市教育委員会/編)
 鉄道ピクトリアル 2006年1月増刊号<特集>名古屋鉄道(電気車研究会 鉄道図書刊行会)
 鉄道ピクトリアル 1971年3月号(電気車研究会 鉄道図書刊行会) 私鉄車両めぐり〔87〕 名古屋鉄道〔3〕

撮影日 2015.01.04

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