広場の中央付近には妙な木が生えてます。 サクラの根元からスギが生え、さらにその幹からサワラが生えるという3種類の木が一体化したというもの。 さてこの広場を見回すと他にもいくつかのものが見えます。
推察するにここには坂下営林署の川上製品事業所(元の川上伐木事業所)があったのでしょう。 この事業所には機関車が1台配置されており、インクライン下〜丸野で運材貨車牽引に当たっていたようです。 戦前プリムスの4.1tガソリン機関車が川上から付知森林鉄道に転属して付知の1号機となっています。 この広場に車庫があって常駐していたのでしょうか。


一番新しそうなカモシカ供養塔。裏には「川上村猟友会 カモシカ捕獲有志」「坂下営林署」「川上村役場」「川上村森林組合」の文字。
坂下営林署が組織変更で木曽森林管理署坂下事務所となる1999(平成11)年3月以前の建立と見られます。 2001(平成13)年には岐阜県内の国有林は木曽森林管理署から東濃森林管理署へと管理替えになっており坂下事務所も無くなりました。
その向かいには慰霊碑とも顕彰碑とも取れる詳細情報不明の石碑が2基。
右の碑には「故 班長 小縣隆一君之碑」、左の碑には「故杣總頭三尾コ吉君之碑」とあります。


●石碑について 〜戦後まであった「庄屋制度」〜
石碑の裏面にも建立の経緯など詳しいことは刻まれておらずこれらの石碑が建てられた経緯は分かりませんでした。 「故杣總頭三尾コ吉君之碑」側面には「大正拾年川上伐木所其他有志者建之」の文字。 1921(大正10)年となると川上森林軌道開業より前の流送時代末期。
「杣」の「総(總)頭」とは帝室林野局の伐木事業所から依頼を受けて配下の「総頭格」−「旦那」−「庄屋」を通じて伐採担当の「杣」、運材担当の「日用(雇)」を指揮監督する責任者のことで各事業所に1人いました。 総頭は事業所で帝室林野の職員と起居を共にし末端の杣、日用と言った現場で働く組員やその家族の生活の面倒を見ます。
この制度は「庄屋制度」と呼ばれます。日本むかしばなしなどでイメージする村のまとめ役「庄屋さん」の山版です。 明治時代になって村長、村役場に変わり無くなったと思われるでしょうが山では森林鉄道が走るようになった後も残っていました。 杣や日用は上級者の総頭〜庄屋に絶対服従となり上級者による給与のピンハネも横行しました。 庄屋制度は封建色の強い身分制度で戦後の民主化にそぐわないとして林政統一と同時期1947(昭和22)年の労働基準法施行後に姿を消します。
もう一つの「故 班長 小縣隆一君之碑」裏面には摩耗で読み辛いものの「昭和二十七年十一月○○○」「川上伐木事業所○○○〜」とありました。 こちらは戦後、林政統一後で林野庁長野営林局坂下営林署になってからのものです。 班長は庄屋制度の後を受けてつくられた役職で営林署が直接雇用した班員をまとめる立場・・・実際には庄屋制度を引きずって班長が班員の任免権を持ち、悪質な例では班員が営林署から受け取った給料袋を班長が回収しピンハネすることもあり労働争議に発展したこともありました。


石碑の山側には鳥居もあります。 神岡の金木戸製品事業所跡でもこのような白木の鳥居を見かけました。 事業所跡を出て再び渓谷区間に入ります。 数少ない平坦な土地を選んで事業所をつくっていたことが実感されます。


足元には川上川の深い谷。 間もなく川上川との高度差が少なくなり銅穴の滝のあずま屋に到着。 東濃森林管理署が立てた川上国有林の案内板もあります。


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