坂川鉄道、坂下森林鉄道史

●坂川鉄道前史
長距離送電技術が確立して来ると名古屋から離れた木曽川でも八百津発電所を皮切りに水力発電所が建設されていった。
当時はまだ木曽川本流を完全に遮断するダムは建設されていないが木曽川の流れを利用した管流し、筏流しを行う木曽式伐木運材法に影響が懸念されていた。 当時の東海地方で最大手の電力会社だった名古屋電灯が木曽川の河水を発電目的で取水するのに対し長野県知事は木材輸送代替手段として木曽川沿岸森林鉄道5路線の建設を条件として認可した。 この5路線の内の「田立村字元組長谷川落合より坂下駅に連絡する軌道」が坂川鉄道新坂下〜奥屋と田立森林鉄道、軌道区間に当たる。
名古屋電灯は発電設備建設のため余裕がなく森林鉄道、軌道の建設については費用を会社側が負担、工事は帝室林野局が行うこととした。

●森林鉄道計画を地方鉄道へ
帝室林野局が森林鉄道建設計画を進める中、沿線の川上村では森林鉄道ではなく地方鉄道として旅客、一般貨物営業を行うように帝室林野局へ働きかけた。 川上村では当時の多くの国有林、御料林地帯と同じく明治時代より官林下げ戻し運動が起きており、当局側と地元選出の岐阜県会議員原 頼幸が折衝に当たっていた。 森林鉄道の地方鉄道化に関しても原が中心になって交渉を行い、資本金40万円の内帝室林野局が7/8の35万円、地元で残りの5万円を負担して坂川鉄道株式会社を設立している。 資本比率は帝室林野局が87.5%にも上り実質的には森林鉄道に地元も幾らか資本を出すことで一般旅客、貨物営業を行うという形だったようだ。 なお資本金額は1926(大正15)年6月に46万円へ増額しているが増資分の出資比率は分かっていない。
社長には地元の原 亮が選ばれ、取締役は川上村議会議員など村の有力者が占めており村営軌道のような趣がある。
一方で大半の資金を出している帝室林野局側の人物も取締役として入っている。 鉄道開業後に取締役になっている竹内 宗一は帝室林野局木曽支局技手だった人物で地方鉄道営業廃止時には専務取締役となっており会社清算まで深く関わっていたようだ。 専務に帝室林野局の人間が就くという方式は田口鉄道と図式が同じであるが、田口鉄道には姉妹会社の豊川鉄道、鳳来寺鉄道、またこれら中小鉄道会社の上には大手の名古屋鉄道が君臨しており帝室林野局以外にも強力なバックボーンが存在していた。 一方で坂川鉄道は地元の個人株主が主体で帝室林野局と渡り合うほどの強力な勢力はない。

●坂川鉄道開業
1924(大正13)年6月31日に鉄道省より敷設認可が下りた当時は石油発動機(ガソリン機関車)動力としていたがすぐに蒸気動力へ変更している。 既存の交通機関との競合問題については坂川鉄道通過予定地に坂下〜三原(下呂)の飛騨索道が貨物営業を行っていたが飛騨索道は飛騨川の発電所建設資材輸送が主目的なので競合の問題はないとしている。 工事は1925(大正14)年より東京の帝室林野局本局の技師監督の元で行われ翌年に完成。 1926(大正15)年12月12日に新坂下〜奥屋〜丸野10.5q(10,520m)で営業開始している。 丸野より奥の川上御料林(川上森林軌道、後の坂下森林鉄道2級線が敷かれる)を名古屋支局付知出張所、奥屋より奥の田立御料林を木曽支局妻籠出張所が管轄しており坂川鉄道線は支局の境目の地域を通っている。 森林鉄道の建設は支局で行うこともあるが坂川鉄道の工事を東京の帝室林野局本局の技手が工事を監督したのは受益者が複数となるので第3者が建設を監督することで公正を期すためだったのかも知れない。



●田立森林鉄道、川上森林軌道と接続
帝室林野局は坂川鉄道開業後に接続する森林鉄道の敷設工事に進んでいる。 1927(昭和2)年3月に坂川鉄道終点の丸野(貨)駅より名古屋支局付知出張所の川上森林軌道、同年6月に奥屋駅より木曽支局妻籠出張所の田立森林鉄道を起工している。 翌年には両鉄・軌道工事が竣工、川上5,200m(3,911mとする資料もある)、田立2,672mの路線に運材列車の直通運転が開始された。 川上森林軌道は坂川鉄道籍のモ15形(改番でチ1形)運材貨車が入線し運材を行っていたようだ。 一方で田立森林鉄道からはガソリン機関車、運材貨車の坂川鉄道直通乗入が認可されていた。
田立森林鉄道は終点から田立森林軌道が延長、川上森林軌道も奥地へと延び、両線とも奥三界岳や夕森山の奥へとレールを延ばしていった。

●坂川鉄道の地方鉄道営業廃止、森林鉄道転換
坂川鉄道は御料林材輸送があるとは言え会社の屋台骨を支えるほどの収入とはなり得なかったようだ。 旅客輸送については坂下の市街地と小集落をつなぐ程度の路線ではさほど期待することはできなかった。
戦時中ともなれば資材も人員も不足し保線もままならない状態となり御料林材輸送に支障を来すようになっていた。 帝室林野局は坂川鉄道線を森林鉄道として直接管理下に置くため川上村に対し鉄道を引き渡すよう勧告している。 おらが村の鉄道を引き渡すことについて反対意見も根強かったが結局は村議会で当局への移管が議決され、1943(昭和18)年4月10日に帝室林野局へ鉄道移管の上申書を提出している。 この上申書では創業時から代表者を務めた社長 原 亮の名前が消えており、社長不在の状態だったようだ。
1944(昭和19)年12月12日の廃止時には北原 禎一が社長となっていた。 新たに社長となった北原は帝室林野局から派遣されており、坂川鉄道社長と田口鉄道の専務取締役を兼任している。 坂川鉄道社長就任前は帝室林野局札幌支局監理課課長、それ以前は木曽支局に長く奉職して王滝・小川森林鉄道を運営する上松運輸出張所長を勤めている。 北原社長は木曽支局OBで専務取締役の竹内 宗一と共に坂川鉄道の清算に当たったようだ。

●木曽地方帝室林野局坂下出張所の発足
坂川鉄道営業廃止から間もない1945(昭和20)年1月1日に坂下出張所が発足した。 この出張所は名古屋地方帝室林野局付知出張所の川上御料林、木曽地方帝室林野局妻籠出張所の田立御料林と同局湯舟沢出張所の全管轄区域を引き継いで誕生した。 林鉄で言うと坂川鉄道とその支線とも言える川上森林鉄道(後の坂下森林鉄道2級線)、田立森林鉄道(同1,2級線)系統と湯舟沢森林鉄道を管轄した。
坂川鉄道は終戦後10月15日に会社解散、12月15日に坂下出張所が鉄道施設や車両を買い取り坂下森林鉄道(後の1級線区間)としている。 廃止から坂下出張所買取まで1年のブランクがあるがその間の御料林材輸送をどうしていたのかはわかっていない。

●路線拡大から廃止へ
1947(昭和22)年4月1日に林政統一が行われ農林省の国有林、宮内省帝室林野局の御料林が一本化された。 坂下出張所は農林省の外局である林野局(現・林野庁)の長野営林局坂下営林署となった。 復興材生産、輸送のため森林鉄道は再び延伸されるようになり坂下、田立とも奥地へと延伸を続けるがレールなど資材が不足していた。 当時の資料では路線延長や改良工事の計画が数多く見られるが資料による食い違いも多く実態はわからない。
何とか戦前の路線を復旧、改良して奥地へ延伸しようとしていたが1955(昭和30)年頃を境に道路林道を延伸する方針に変わっている。 林野庁の林道整備方針が森林鉄道から道路林道中心に転換し現場も混乱をきたしていたようだ。
1956(昭和31)年度に旧・坂川鉄道区間の新坂下〜丸野が廃止され田立、坂下2級線は他の鉄道と接続しない離れ小島の路線になった。 1958(昭和33)年度には田立森林鉄道1級線が全廃、1959(昭和34)年度には同2級線も全廃、また翌1961(昭和36)年度には坂下営林署所属の運材貨車が0台になり実質的に森林鉄道の使命は終わった。 軌道撤去のため機関車やモーターカーはその後も暫くは残ったものの1962(昭和37)年度には坂下森林鉄道2級線が全廃された。


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