しばらく橋梁、桟橋はなく600mほど進んで起点より4,980.5m地点の53‰勾配上にある第17号桟橋(?)、第18号かも知れませんが周辺の地形からすると17号かな? 200m先の第18号は急峻な場所にあったようなので後に暗渠化されたのかも知れません。
第17号桟橋 全長9.0m桁3.0m×3連
第18号桟橋 全長10.5m桁3.5m×3連
薄暗い森の中から本谷川の崖っぷちに出るので明るくなり北北西に向かっていた本谷川と軌道は西南西へと直角に曲がります。
本谷線の工事は起点から進められ、この少し先の起点5,468m地点までが1938(昭和13)年度の第1期工事区間(1938(昭和13)年3月12日起工〜同12月30日竣工)、その先本谷までが1939(昭和14)年度の第2期工事区間(1939(昭和14)年1月11日起工〜同12月30日竣工)となっていました。


宇連の集落中心手前、本谷線起点5,520mで右の川側へ分岐して降りて行くのは作業軌道の澄川支線跡。 本谷を渡り対岸へ渡り分岐から93.87mで終点の短い路線でしたが澄川の貯材量は本谷や椹尾谷より多かったということで非常に重要な支線だったようです。


澄川支線は本谷線から分かれるとすぐに直角に曲がり本谷を渡る木橋に差し掛かっていました。 本谷線軌道上から見た澄川支線橋梁の橋台。 段戸山軌道本谷線平面図(国立国会図書館つくば分館所蔵)
澄川支線分岐付近の平面図。 川の上に見える赤線が本谷線で、その下に分岐する濃い青の線が澄川支線。当初は本谷線下に起点寄り(左)から分岐する赤線のルートにする予定だったのが訂正されたようです。 澄川支線橋梁の上流側(右)にあるのは水路橋でしょうか。澄川支線と交差した水路が引き込まれた建物は水車動力の製材所と見られます。


澄川支線橋梁は作業軌道とは言え土木軌道並みの立派な木橋(全長32.5m桁2.5m×1連+方杖10.0m×1連+桁4.0m×5連)でしたが1959(昭和34)年9月の伊勢湾台風で流失したそうです。 方杖橋部分の橋脚は流失したのか見当たらず対岸の桁橋部分の橋脚だけが見られます。 対岸の澄川支線終点付近。今は県道33号瀬戸設楽線が通っており製材所(?)跡は広場になってます。 右に分岐する町道325号駒ヶ原宇連線はかつて連絡していた木馬道(後述)の跡でしょうか?


 
●澄川の木材輸送
国有林や当初の軌道路線名にもなっていた段戸山にある澄川事業区は本谷線と標高差が大きく軌道を敷設することは非効率的でした。 昭和27年度 直営生産研究報告集「澄川伐木事業地に於ける運材法について」(新城営林署 農林技官 花木 榮蔵)を見ていくと澄川事業地が田口事業所の運材でかなり重要な位置を占めていたことが伺われます。
田口事業所では1か月の適切な運材量を2000石とし、内訳は椹尾・本谷を合わせて500石、澄川1,500石と澄川から輸送量が圧倒的に多く計画していました。 この木材を輸送すべく作業軌道、木馬道、索道を介した連絡輸送を行っていました。
 作業軌道:184m(高低差-9.14m 延長が澄川支線平面図の倍になっているが延長したのか、別に軌道を新設したのか不明)
 木馬道  :作業軌道終点〜169林班 1,426m(高低差110m)
 索道   :169林班〜170林班 995m(高低差178m)
本谷線の運行は行きは機関車で空車引き上げ、帰りの積車は各貨車単体で重力下降する乗り下げ運材を行っていましたが、作業軌道終点から本谷線へ列車を出す場合は本谷線軌道の方が高い位置にあるため本線まで機関車で積車を引上げ(押上げ?)していました。


田口森林鉄道本谷線4へ 田口森林鉄道本谷線6へ 新城営林署の森林鉄道TOPへ


inserted by FC2 system