日本毛織弥富工場専用線
1928(昭和3)年に日本毛織(以下ニッケ)が中心となり設立した昭和毛絲株式会社。 工場の建設地は間もなく弥富町(現 弥富市)の木曽川に面した田園地帯に決まりました。 393,400uの広大な工場建設と合わせて最寄りの関西本線弥富駅からの専用線も敷設され、1929(昭和4)年11月にはもう試運転が行われています。 工場は1930(昭和5)年2月に操業開始、専用線もその頃から本格稼働したと思われます。
専用線は延長1.0km、昭和初期開業としては珍しく最初から私有機を持っていたようです。 なおニッケは独コッペル製のディーゼル機関車など国内では珍しい機関車を導入しており、子会社の昭和毛絲でも何か珍品機関車を使っていたのかも知れません。
専用線には四日市港に輸入された原料の羊毛が到着していました。 他にも動力源の石炭も到着していたと思われます。
第二次世界大戦がはじまると直接軍需に関係ない紡績業は苦境に立たされ、1942(昭和17)年に昭和毛絲は親会社のニッケと合併。 さらに弥富工場は川西機械製作所の航空機関連工場にされてしまいます。 戦後はニッケに戻されて紡績工場として復活します。 1959(昭和34)年の伊勢湾台風では海抜マイナス地帯の弥富地区は水没の憂き目に遭いますが、工場は水害を想定して全体が1m嵩上げされていたため水は付いたものの致命的な被害は出なかったようです。 その後は水害対策と並んで宅地開発も進み、1964(昭和39)年には専用線の土地も宅地化されることになって廃止されました。 →地図


名鉄尾西線が発着する3番線北側の駐車場が貨物側線跡。 ここは名鉄との授受線でもあり、多くの貨車がひしめいていました。
尾西線がカーブを始める場所から関西本線への連絡線が分岐していました。 専用線廃止後の弥富駅配線図を見るとその途中から分岐する安全側線のようなものがあり、これが専用線の名残ではないかと考えられます。
名鉄との連絡線&専用線分岐跡。 手前の架線柱付近から尾西線への連絡線が分岐。 貨物側線を発車したニッケのスイッチャーは尾西線を横断して関西本線に合流する手前で専用線に入っていた(赤矢印のルート)ものと思われます。
因みに現在関西本線弥富〜桑名は複線ですが当時は単線でした。



関西本線と並走していた専用線が分かれる地点。 専用線跡地は複線化用地に使われているものと思われます。 この辺は宅地化で跡形もありません。 専用線跡地と思われる位置に周囲よりも低い妙な溝橋が・・・。 柵に突き当たってしまうだけでどこにも行けないこの橋、専用線の遺構でしょうか?


碁盤の目の住宅地に一本だけ斜めに延びる道・・・とはいえこの道全てが廃線跡と一致するのではなく、工場へ近づくに連れて道路から右側の住宅部分へ移って行くようです。 ニッケの工場跡はAEONタウン弥富やゴルフコースになっています。 県道458号線を挟んで工場側はAEONタウン弥富の歩行者・自転車専用入口に専用線跡地が使われています。


入口は何と鉄道門そのもの!現在は貨車ではなく買い物客を迎えています。 我々のような趣味者には嬉しいのですが買い物に来る人には殺風景すぎるのでは?(^ ^;)

そして鉄道門手前には開渠跡の橋脚が。 これは橋桁を置かずに橋脚上に直接枕木を置いてたのでしょうね。 単線よりは幅が広く複線よりは狭いくらい。 工場完成時の平面図によると門前で線路が分岐していたためです。



日本毛織百年史に載っている工場完成時の平面図。 機回し線はなく行き止まりとなっています。 倉庫や石炭置場が北側の線路沿いにあるので積み降ろしは北側の線路で行われていたものと考えられます。 また南側の線路から分岐する短い線路があり、上屋のような標記が見られます。 スイッチャーの車庫ではないかとも推測されますが詳しくはわかりません。
この配線からすると機関車は弥富駅へ出る際は貨車を牽引するのに対し、工場へは推進運転で戻っていたものと思われますが真相は如何に?


参考:日本毛織百年史(日本毛織 百年史編纂室)
 弥富町誌(弥富町誌編集委員会)
 専用線一覧表(日本国有鉄道貨物局)

撮影日 2012.03.03

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