1958(昭和33)年日本車輌製でモハ3011と同時に製造されました。
モハ3011と同スタイルですがこちらは軌道線の金石線向けのため全長は600mm短い15,000mmで側窓の扉間窓が1枚少ない5枚となっています。
集電装置もポールで当時としても古風なポールを付けた新形電車というミスマッチな姿で登場しました。
後にポール→Zパンタグラフ→パンタグラフと交換されており、過渡期には小さい車体に2種類の集電装置を装備する姿が見られました。 1964(昭和39)年に金石線へモハ3000、3010形が転入すると加南線へ転出し、後に浅野川線入りしています。 昇圧後に他の旧型車両が処分された後もなぜかしばらく内灘車庫の片隅に残されていましたが結局解体されたようです。 |
内灘で休むモハ3301。前面窓はモハ3011と同じく全てHゴム化されて左右対称のスタイル。
貫通扉の左右にはこの車だけ手すりが残されていました。
側窓は最後までスチールサッシだったようで窓枠までクリーム色で塗装されていました。 この直後にモハ3501と共にイベント塗装に塗られて編成を組み約半年間過ごしたようです。 内灘 1996(平成8)年3月25日 |
1943(昭和18)年木南車輌製の温泉電気デハ26が前身。
車庫火災で焼失した車両の復旧扱いや新製、南海電鉄出身木造車の鋼体化で北陸鉄道合併前後に生まれた11両のうちの1両。
北陸鉄道ではモハ1800系列に改番(機器の違いなどでモハ1800、1810、1820形に分かれる。後にモハ1830形も)されてます。
見た目は両側非貫通で無難なスタイルの電車ですが両数が多い上に改番歴も多く複雑怪奇な経歴を持つ北鉄の車両群の中でも特に難解(- -;) なお最後まで残った当車の経歴はデハ26→モハ1803→モハ1831→モハ3563と改番されています。 転属についても加南→浅野川→加南→金石→石川総→浅野川と各線を渡り歩いたようです。 |
側面は新製時からあまり変わりないようですが、制御機器や電動機、台車、貫通化されてHゴム化された前面スタイルなど改造され尽くした感のある車。
末期はラッシュ時の3両連結運転のため増結車運用が主体だったようで、自分の目で直接動いてる姿を見た覚えがないです。 内灘 1996(平成8)年3月25日 |
1962(昭和37)年日本車輌製で一連の北鉄標準型の最終製造車。 それまでの同系車は台車を新製していたがモハ3551は廃車となった木造電車モハ850形(伊那電気鉄道デハ110→国鉄→)の機器、台車流用で製造されています。 後に機器交換でモハ3501と同仕様となったのですが、そこはやはり北鉄・・・窓の形状など見た目にも完全に同じにはなっていません。 なおこの車だけは珍しく浅野川線生え抜きとのこと。 |
今は地下区間となった区間を行くクハ1211+モハ3551の内灘行き。
モハ3501と同じ大きな歩み板がペロンと突き出て窓の大きさが左右非対称の前面スタイル。
言うなればテヘペロ顔でしょうか? また車体下端のやけに低い位置にある尾灯も特徴の一つ、何故こんな位置に付けたのでしょうかね? 北鉄金沢〜七ツ屋 1996(平成8)年3月25日 |
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