北沢産業網干鉄道
1942(昭和17)年に東京芝浦電気網干工場、翌1943(昭和18)年に姫路工場が操業を開始し、国鉄網干駅から各工場を結ぶ専用鉄道が建設されました。 戦後の財閥解体により1950(昭和25)年2月に東芝網干工場は西芝電機として独立します。 その際この専用鉄道も北沢産業に移管されました。 とは言え実質は東芝姫路工場と西芝電機の貨物を運んでおり、経営主体が変わっただけで専用鉄道の本質は変わっていません。 1966(昭和41)年には何故か専用鉄道から地方鉄道に変更されていますが旅客輸送をするでもなく、相変わらず貨物専用鉄道としての道を歩み続けます。
そんな当鉄道も貨物が自動車輸送に切り替わっていくと輸送量が減少していきます。 浜田港から木材輸送をしていた中浜田〜浜田港0.7kmが1973(昭和48)年2月27日で廃止。 そして1984(昭和59)年2月1日のダイヤ改正で網干駅からの国鉄連絡運輸が廃止。 鉄道の運行は実質この時点で終わっていたと思われますが、すぐ廃止にはならず1987(昭和62)年11月11日休止、1989(平成元)年5月1日廃止となっています。 →地図


JR網干駅南口の北沢網干パーキングにはDB2が保存されています。駐車場事務所には「北沢産業株式会社網干鉄道事業部」という表札が掛かっているのも気になります。 網干駅から山陽本線に沿って下関方に続く線路跡。 枕木の柵に囲まれた空き地になっており、網干総合車両所の手前で南へ分岐します。



車両所手前の跨線橋下から忽然とレールが現れます。 廃止から20年以上、実質的な運行停止からでは25年の歳月が経っているとは思えない光景です。 不思議なことに路盤は複線分、開渠でも橋台が複線化前提でつくられているように見えます。




田園地帯にカーブした線路が続きます。 それにしても枕木の間隔があまりに疎らな気がしますが、これで列車が脱線しないのだろうかといらぬ心配をしてしまいます。


リレーボックスや側溝を跨ぐ警報機の台座が残っていたり、道路上以外は線路がそのまま残ってます。 線路脇の用地境界標には東芝専用鉄道時代の名残があります。


住宅に突き当たってぷっつりと切れる線路。唐突過ぎて何だか妙な光景です。 道路を渡ると線路らしい柵で囲まれた敷地がわずかに残っています。 因みに右に見える貨車流用倉庫はワラ1形。


踏切標識の骸骨と思われるものが転がっています。



東芝姫路工場横の上余部駅と思われる場所。フェンスの向こう側の舗装された場所が本線の跡。 その向こうには東芝姫路工場への引込線のものと思われる鉄道門があります。


上余部駅から引込線が延びていた東芝姫路工場は電気機器や半導体製造を行っており、かつてはブラウン管の主力工場でもあったようです。 ここに出入りする貨車はワムやワラ辺りと思われますが具体的な積荷は何だったんでしょうね?


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