名古屋鉄道挙母線
愛知県にかつて「挙母(ころも)市」という名の町があったことは今ではあまり知られていないと思います。 トヨタ自動車がこの町に本拠を置いたことから1959(昭和34)年1月1日に「豊田市」へ名前が変わったためです。 挙母線も元は岡崎と挙母を結ぶため名付けられた線名でした。
この線のルーツは岡崎電気軌道が井田〜門立(もだち)を結ぶ郊外鉄道として1924(大正13)年12月27日に開業した郡部線6.5kmです。 岡崎電気軌道は郡部線を建設した頃から業績が悪化、1927(昭和2)年4月16日には三河鉄道に合併し、郡部線は同社の岡崎線となります。
三河鉄道は同線の延長工事を行い、1929(昭和4)年12月18日には三河岩脇〜上挙母6.4kmが開業、 架線電圧も岡崎井田〜大樹寺以外は600Vから三河線と同じ1500Vに揃えて三河線との直通運転が可能になりました。
一方で枝線と化した三河岩脇〜門立1.5kmは1938(昭和13)年5月13日で休止、1939(昭和14)年10月3日には廃止されました。
岡崎〜挙母がつながり、1938(昭和13)年にはトヨタ自動車の挙母工場(現本社工場)が沿線に進出、 三河鉄道は同工場横に三河豊田駅を設置、工場への貨物専用線も整備しました。 自家用車が普及していなかった頃、トヨタ社員の通勤時間に同線の電車は大混雑していたそうです。
三河鉄道は1941(昭和16年)6月1日に名古屋鉄道と合併、名鉄岡崎線(1948(昭和23年)5月16日に挙母線へ路線名変更)となりました。
戦後もトヨタを主体に通勤旅客、貨物輸送で活況を呈していたようですが、トヨタの急成長とともに社員は自動車通勤へ、貨物もトラック輸送へ移り、 大樹寺〜岡崎市内のフィーダーを務めていた岡崎市内線が1962(昭和37)年6月17日に廃止されて挙母線の鉄道としての存在意義が低下。 さらに挙母線と並行する国鉄岡多線(現在の愛知環状鉄道)岡崎〜新豊田の建設も決まったため1973(昭和48)年3月4日に廃止されました。
地図


挙母線が分かれていた上挙母(うわごろも)駅。駅集中管理システム導入後はすっかり減った木造駅舎が今でも残っています。 ただし、いつの間にか外壁がリフォームされ木造の味わいは消えてしまいました。 1997年時点の上挙母駅。当時は有人駅で自動券売機も自動改札機もなく、窓口で駅員さんから切符を買ったような記憶があります。



上挙母駅構内。今は島式ホーム1面2線だけですが、かつては2面3線あり、写真中央の線路が挙母線、 昔あったホームを挟んで右端に三河線知立方面の電車が発着していたそうです。 上挙母駅知立方の保線車両用側線がかつての挙母線。 側線末端部には1本架線柱も残っています。




愛知環状鉄道(以下愛環線と呼びます)との合流部までは道路化されてるものの、ほとんどの架線柱台座が残ってます。 挙母線は鉄製四角アングル組立てタイプの電柱が多かったようです。 愛環線と挙母線跡利用の道路の合流部。 ここからは愛環線が挙母線跡地を利用しています。 愛環線は複線化工事中のため線路にユンボが乗ってます。



愛環線三河豊田駅。名鉄時代のトヨタ自動車前駅(1959(昭和34)年9月30日までは現駅名と同じ三河豊田を名乗っていた)と同じ場所にあります。 挙母線廃止間際まで駅隣のトヨタ自動車本社工場への引込線がありました。 三河豊田駅南方で愛環線から挙母線跡の遊歩道が分岐します。




トヨタ自動車前駅は名前の通りトヨタ自動車本社の前にあり、通勤客や工場への貨物の発着が多かったようです。 この駅からトヨタ自動車本社工場への引込線も延びており、構内入換にはトヨタ自社製のガソリン機関車などが使われていたようです。 トヨタ本社工場と駅とは結構高低差があり、引込線はスイッチバックで工場へと延びていました。 豊田市内にある鞍ヶ池公園のトヨタ鞍ヶ池記念館には創業時の本社工場の模型があり、 挙母線や引込線も精巧に作られているので廃線探訪の参考にもなると思います。


線路跡は遊歩道として整備された上に周りもすっかり建て込んで、挙母線の面影はありません。 以前は線路を撤去しただけだった路盤も東海環状自動車道の工事と関連して遊歩道に整備されたようです。


以前の線路跡。線路のバラスト、鉄製架線柱の台座も残り、鉄道の匂いが色濃く漂ってました。


渡刈駅跡は整備されて小公園に。ホームが再現され挙母線の説明板も設置されてます。 架線柱を模したと装飾まで施されかなり凝ってますね。折角なので3700系特急電車を落書き。(^ ^;)


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