丸山ダム建設専用線
丸山ダム並びに丸山水力発電所は戦時中に建設が開始され、戦況悪化による工事中止、戦後の工事再開を経て1955(昭和30)年に完成しました。 丸山ダムは当時では国内最大のダムで、建設時には名鉄八百津線(2000(平成12)年9月30日廃止)八百津駅から専用鉄道もありました。
専用鉄道は戦時中のダム建設開始時には建設が開始され、工事中断時には路盤も大部分が完成していたと言います。 戦後発電所建設が再開されると線路の工事も再開され、1952(昭和27)年3月に非電化で八百津〜錦織が開業。 同年9月には電化され、関西電力の私有30t電機デキ250形2両が新広見(現在の新可児)〜八百津〜錦織で資材輸送列車を牽引するようになりました。 さらに1953(昭和28)年7月には錦織〜丸山ダムの延長線が非電化で開業しています。 錦織へは主に磐城セメント(現大阪住友セメント)七尾工場や小野田セメント(現太平洋セメント)藤原工場から袋詰めセメントが到着しています。 有蓋貨車で錦織停車場に到着した袋詰めセメントは索道(貨物用リフト)に載せ替えられてダムサイトや発電所の工事現場へ送られていました。 丸山ダムへの延長線は主に機材輸送に使われていたようです。
鉄道輸送は1954(昭和29)年5月31日で終了、デキ250形2両はそのまま名鉄へ譲られました(詳しくは名鉄機関車列伝のデキ250形の項をご参照下さい)。
錦織〜丸山ダムの延長線やセメントミルク輸送軌道で使われていた加藤7tDL(3両以上?)もまだ新しかったので転属したものと思われます。 内1両は最終的に伯備線総社駅の専用線に移ったらしく、それと思しき機関車が奇跡的に現存しています。
地図


今は懐かしの名鉄八百津線。 八百津駅をキハ30が発車するところです。 末期は側線も撤去され棒線化されていましたが、丸山ダム建設時には側線群が広がっていました。 錦織まで重量貨物列車を走らせるため、広見・新広見駅の連絡設備増強、八百津線兼山駅に交換設備を追加したり、八百津駅前には変電所も増設され活況を呈していたようです。 2009年時点での八百津駅跡・・・すっかり住宅地化してしまい鉄道の痕跡は片隅の記念碑だけに。 八百津線現役時に何度か乗っているのでこの光景は何とも侘しいもの。 住宅が並んでいる辺りがプラットホームと本線があった場所、道路が側線跡で、画面奥に専用鉄道が延びていました。



八百津駅を出ると専用鉄道跡は道路化(県道381号多治見八百津線)されており、10年前と大して様子は変わりません。 切通しになっている専用鉄道を跨いでいた跨線橋はレールを利用したものです。 切通しを抜けると木曽川に面した断崖の上です。 木曽川の絶壁上を行く線路跡の県道を俯瞰。 こんな風景の中をワム車を連ねたデキ250が行き来していたのでしょうね。 対岸にはかつて木材の流送で栄えた八百津の町並みが広がります。



その渓谷区間にある橋は専用鉄道の橋梁を利用したものです。 スティフナー(ガーダー側面に縦に付いている部材)がJ形に曲がっている構造からすると古いイギリス製のガーダー橋と思われます。 専用鉄道建設時に他所から転用したのでしょう。 錦織停車場跡は町営住宅になっています。 道路が本線で、町営住宅部分に貨物ホームや巨大な木造倉庫が建っていました。 八百津方(画面奥)の道路左側には非電化区間用の加藤7tディーゼル機関車の車庫もあったそうです。


錦織駅からダムサイトや発電所へ送るセメントは索道に積み替えられます。 後の感覚では鉄道によるセメント輸送と言えばタンク車によるバラ積み輸送が主体(とはいえ今では鉄道輸送自体が激減してますが・・・)ですが、かつては袋詰めセメントを有蓋貨車に載せて輸送するのが当たり前でした。
錦織停車場でも貨車で到着した袋詰めセメントはそのまま索道に載せられ、ダムサイトや発電所の各現場で人手により袋を開けてセメントプラントに投入していたそうです。 丸山水力発電所建設作業でこの解袋作業にかかる労力が問題となったようで、以降は工場から直接バラ積みで輸送するのが主体になっています。 実際に同時期に建設されていた多摩川の小河内ダム建設にはバラ積み輸送用のタキ2200形(後にホキ1形)がセメント輸送に使われていました。


錦織駅の丸山ダム側には錦織綱場跡の碑があります。 綱場とは木曽川上流から木材を流送する際に川に綱を張って木材を集積して筏を組みさらに下流へと送るための施設です。 木曽川にダムが建設され、木材輸送が鉄道輸送に切り変わるまで利用されていました。 錦織停車場から先は非電化の延長線となります。 錦織を出てすぐの蘇水峡を跨ぐ蘇水峡橋。 鉄道時代の橋を転用(当初から転用する前提で設計されたものと思われる)したのでしょう。



蘇水峡橋を渡るとすぐトンネル。トンネルポータル上部には関西電力の社紋が刻まれています。 トンネル手前の狭い道を左に行くと丸山水力発電所。


丸山水力発電所側にあるトンネルポータル。 錦織から来た列車がここに出るには丸山ダム側からスイッチバックする必要があります。 このポータルは現在柵でで封鎖されていますが、トラックで機材を搬入する際はこの柵が開かれるのでしょうか?


トンネル前から丸山水力発電所へ降りるインクライン跡。 機材を輸送する場合、トンネル前で貨車からインクラの台車に積み替えて搬入していたようです。 トンネル前にあったインクラの巻上げ機は跡形もありませんがレールは残ってます。 トンネル内の分岐を丸山ダム側から見るとこうなります。 左が錦織方、右が丸山水力発電所です。発電所へは発電機や水車などの大型機材を大物車で運んでいたのでしょうか?



丸山ダム側のトンネルポータル、やはり関電社紋が刻まれています。 道なりに進むと丸山ダム。ダムの堰堤手前(画像右手付近?)が終点だったようです。


丸山ダムの場所には現在新丸山ダム建設が計画されており、上流では水没する酷道国道418号線(その筋では有名な超「酷」道 ^ ^;)の付け替え工事などが行われています。 専用鉄道終点すぐ横にあるダム建設時から使われていた小和澤橋も新しい橋に切り替わり、今では通行禁止になってます。
なおダム建設時の専用鉄道はもう一つありました。 ダム左岸側のコンクリートプラントからセメントミルクをダムサイトへ運ぶための鉄道で、こちらでも加藤7tDLが使われていたそうです。 現在でも路盤の平場と建物基礎は残っていますが、あまりに分かりづらいので割愛します。


木曽川左岸のコンクリートプラント跡。 新丸山ダム建設に伴う付け替え道路が砂利を篩分ける塔達の真ん中を貫くようになりました。 全長3000mを超える大久後トンネルを抜けてくるとこの異様な光景が広がります。 しかし何よりこの新しい付け替え道路は立派な割に通行量が少ないのが気になります。 因みにこの道の突き当たり(前方の木立の辺り)がセメントミルク輸送軌道の起点なのですが何も残ってません。 ダムから離れて木曽川右岸の旧国道418号線へ。 現在は立派な新道ができたため国道指定を解除されているようです。 ここに油皆洞橋という橋が架かっているのですがこの橋はどう見ても鉄道橋の転用ですね。 明治時代のイギリス製と思われますが銘板が残ってないのでいつどこで造られたかもどこの路線から転用されたのかも分かりません。 1954(昭和29)年12月竣工とあるのでダム発電所工事関連で架けられたのは間違いないでしょう。


油皆洞橋についてですが、「丸山発電所工事誌」に気になる記述がありました。 専用鉄道開業前に短期間道路輸送で建設資材を運んでいたそうです。
しかしこれは従前の里道を使ったもので、舗装などされていない狭い道を大きなダンプカーが行き交ったものですから周辺の住民は堪ったものではません。 というわけで工事事務所には苦情が絶えなかったそうです。
関西電力ではこれを反省として道路輸送時には事前に道路整備をして輸送の改善&地元への補償を行うことにしました。 ダムが完成すると専用鉄道は撤去されるので、以降の資材輸送や人員の移動には再び道路を利用することになります。 恐らくこの道路整備の際に油皆洞橋も架け替えられたのでしょう。


参考:丸山発電所工事誌 総括編(関西電力株式会社編)
 丸山発電所工事誌 仮設備編(関西電力株式会社編)
 名鉄の廃線を歩く(徳田 耕一 編著 JTBキャンブックス)
 写真が語る名鉄の80年(名古屋鉄道株式会社編)

撮影日 2000.08.??
2006.05.15
2009.01.03
2009.09.26
2009.12.18

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