東濃鉄道笠原線
多治見や土岐など東濃地方は美濃焼の産地です。 陶磁器生産が盛んでありながら中央西線が通らなかった笠原の町では大正時代末期、 中央西線に接続する多治見まで鉄道を敷く計画が進み笠原鉄道が設立されました。 しかし建設は資金不足から思うように進まず、新多治見〜笠原間4.6kmが開業したのは昭和に入ってからの1928(昭和3)年7月1日でした。 しかも電気鉄道の計画が途中で蒸気鉄道になり佐久鉄道(現JR小海線)の蒸気機関車を譲り受けて使用してました。 1936(昭和11)年旅客輸送にはガソリンカーが導入されたものの戦時中のガソリン統制でまた蒸気に戻ってます。 さらに戦局が悪化すると企業統制により1944(昭和19年)多治見の隣、土岐津(現土岐市)から出ていた駄知鉄道と合併し東濃鉄道笠原線となりました。
戦後電化された駄知線から気動車が入り、貨物列車もディーゼル機関車牽引になりましたがバス化により1971(昭和46)年6月13日には旅客営業廃止、 貨物専用鉄道となったもののこちらもトラック化により1978(昭和53)年11月1日で廃止になりました。
地図


多治見駅南西側の駐車場が貨物側線や笠原線への接続の跡。 笠原線廃止後も東濃鉄道系列会社が国鉄貨車解体を請け負い、入換用に青い加藤10t機がいたと言う。 笠原寄りの踏切跡から新多治見駅校内跡を見た様子。右側にホームや駅舎があった。 戦前に2軸ガソリンカーを導入した頃は中央西線への乗換えの便のため直進して国鉄ホームに近い所にホームが置かれていたこともあった。


土岐川の橋梁跡を笠原方から見た様子。以前は橋脚の残骸と思われるレールの切れ端が見えたが今回は見つけられなかった。 左の写真の背後に当たる土岐川の堤防裏側にある架道橋跡。新多治見方の橋台が残る。 終点間近に残っていた笠原川の橋台群が撤去された2014年現在では笠原線唯一の橋梁遺構と思われる。




架道橋の先は笠原線の築堤を利用した遊歩道「陶彩の径」が笠原駅手前まで続く。 入口には立派な写真付きの石碑が立てられている。
左の写真は笠原鉄道の1、2号機のどちらか(佐久鉄道)が新多治見行混合列車を逆機牽引で土岐川を渡っているところ。 右は借入中の駄知鉄道1,2号機(雨宮製作所製)のどちらが新多治見駅で入換中の姿と思われる。 丁度このページで2枚目の踏切を近隣の家屋2階から撮影したのだろう。


もう一つ説明板が増えていました。こうして笠原線の記憶を残すものが増えてくれるのはファンとして素直に嬉しいこと。 本多治見駅跡を笠原方から見た様子。元々は交換設備があり島式ホームがあった。 今では左の遊歩道と右のガス倉庫やタクシーの駐車場(どちらも東濃鉄道系列の会社)が線路、真中がプラットホームの跡だったようだ。


笠原川の刻んだ谷間に住宅地が続き、笠原線はその西側の山際を通っていた。 周りは住宅街だがこのように山中を行く路線のような雰囲気の切通しもある。 遊歩道をしばらく行くと市ノ倉口駅跡に達する。 遊歩道は川側にオフセットして続くが当時の笠原線は正面のTYK(当時は東京窯業)大畑工場に突っ込んでいた。 国鉄のC2形貨車移動機(国鉄から払い下げを受けた私有機と思われる)No.1,2が配置され、右の駐車場付近にあった側線が貨車移動機の留置線だったようだ。


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