尾西公園付近(旧西三条電停付近?)でほぼ真っ直ぐ延びていた起街道、起線が南に大きく湾曲します。 建設時に用地買収できなかったからということだそうです。言われてみればカーブの内側に旧家らしい大きなお屋敷が・・・(笑) | 尾張中島電停跡。ここも東洋紡績前(→一宮病院前)と同じく戦時中の輸送力増強で交換設備が設けられたため道幅が広くなっています。 丁度起線代替バス(?)が客扱い中。この辺が旧尾西市(今は一宮市と合併)の中心部なためか乗降客は多目です。 |
起が近付くと沿線が徐々に古い宿場町の装いになってきます。 雰囲気も電車現役時代とあまり変わらないそうです。 一宮市のコミュニティバス「iバス」(旧尾西市営バス、尾西市時代から名鉄バスが車両管理・運行)が走行中。 コミュニティバスにしてはずいぶん大型のバスが使われています。正直そんなに乗客もいないのですが(^ ^;) | 終点の起電停跡。右の瓦屋根の建物は起電停で佇む電車と一緒に写っている写真を見たことがあります。 その建物手前の駐車場敷地には駅舎が建っていました。 電車時代の写真を見ながら定点観測の目印とできる建物がまだ結構残っていますが、流石に最近ではこの雰囲気も変わりつつあります。 |
モ25型 | ||
モ27 |
モ25型は元の岐北軽便鉄道(後の名鉄揖斐線忠節〜美濃北方)が1914(大正3)年の開業時に準備した日本車両製の大型木造二軸電車3〜6号です。
元々郊外鉄道線用で単車としては大型なので、戦時中に輸送力増強のため岐阜市内線から転入しました。 3〜6から改番されたモ25〜28の4両がいましたが、イラストのようにモ27はおへそライトにツートンカラー、 モ28はおでこライトにダークグリーン一色というように各々改造で形態が少しずつ異なっていました。 戦後、集電装置をポールから名鉄式Yゲルに載せ変えて活躍しましたが、起線廃止後は揃って岐阜市内線へ戻り、昭和30年代末まで活躍していました。 |
モ28 |
モ40型 | ||
モ40 |
モ40型は蘇東線開業時に名古屋鉄道(初代)郡部線(名鉄本線、犬山線等)用の電動貨車デワ1型の台車や電気機器、
デシ500型の台枠を流用してデシ100型101〜104として製造されました。
後にモ40型41〜44となりますが、戦後44号は40号に再改番されています。 単車としてはかなり大柄な車体で、運転の際も取り扱いにくい車両だったそうです。 モ25型同様に集電装置をポールから名鉄式Yゲルに載せ変えるまでは、分岐通過時などに車掌が窓から体を出してポールが架線から外れないように紐を引っ張っていましたが、 モ40型は窓が高くてこの作業が特に難しかったそうです。 こちらもモ25型のように各車毎に形態などが少しずつ異なっていたようでモ43はツートンカラー、モ40,41はダークグリーン一色(モ42は写真を見たことがない)。 ほかにも窓桟の有無などそれぞれに特徴があります。 起線廃止後は岡崎市内線へと転出、ここではなぜかYゲルをまたポールに変えており、昭和30年代半ばまで使われていました。 |
モ41 |
モ43 |
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散水車 | ||
ミ3 |
起線が走っていた頃の起街道は当然ながら未舗装、ということで砂埃が舞うのを防止するため各地の市電でも見られた散水車が在籍していました。 名鉄には岐阜などの軌道線も含め4両の散水車がいました。 起線にはミ3号が配置されていました。 ミ3はデシ500型の台枠や走行機器を元に1929(昭和4)年に新川工場で作られた散水車です。 電車というより、電車だった物にタンクと掘立小屋を乗せただけという感じです。 終戦直後の時点で既に新川工場に放置されていたようで、いつまで稼働していたのかは不明です。 |
参考: | 尾西線の100年(清水 武、神田 年浩解説 郷土出版社) |
鉄道廃線跡を歩く(宮脇 俊三編著 JTBキャンブックス) | |
写真が語る名鉄80年(名古屋鉄道) | |
鉄道ピクトリアル 1996年7月増刊号<特集>名古屋鉄道(電気車研究会刊) |
撮影日 2008.10.04
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