北陸本線旧線(木ノ本〜敦賀)→柳ケ瀬線
東海道本線の日本海側と太平洋側を結ぶ鉄道として鉄道黎明期に既に計画されていた長浜から敦賀までの鉄道。 1882(明治15)年3月10日には関ヶ原大垣方面の本線に先んじて長浜〜柳ケ瀬、洞道西口(柳ケ瀬トンネルの敦賀側)〜金ヶ崎(後に敦賀港へ改称)が開業し、現在の北陸本線の原型となります。 因みに東海道線の関ヶ原〜長浜開業は翌1883(明治16)年5月1日、現在では近江長岡経由の新線に切り替わっているため廃止済。 1884(明治17)年4月16日には当時国内最長の柳ケ瀬トンネルが開通して徒歩連絡による柳ケ瀬越えも解消されます。
古くから港町として栄えていた敦賀は鉄道の町としての面も持つようになり、さらにロシアのウラジオストクへの航路に開設より鉄道と航路による国際連絡も行うようになりました。 北陸本線は敦賀からさらに北へと延びて行き、幹線鉄道としての役割が高まります。
しかし敦賀駅を挟んで存在する柳ケ瀬越えと山中越えがネックとなっており、敦賀機関区には当時の優秀機関車と最上級の石炭が割り当てられていたといいます。 梅小路で保存されているD51 1号機も新製配置は敦賀機関区でした。 石炭よりも出力を得られる重油焚きの機関車を配置したり、国鉄初の幹線用ディーゼル機関車DD50も投入されました。 しかし線形の悪さや、柳ケ瀬トンネルの狭さなど改良が必要なのは明白で、戦前から現在の近江塩津経由の新線建設が計画され深坂トンネルの掘削が進められています。 戦時中に新線建設は中断はしたものの、戦後に工事再開、初の本格的な幹線交流電化路線に選ばれます。 1957(昭和32)年10月1日に木ノ本〜近江塩津〜鳩原信号場(現在の鳩原ループ上下線交差付近)の新線(現在の下り線)が単線電化で開業し、柳ケ瀬経由の旧線は柳ケ瀬線という別路線となりました。
各駅の交換設備等も全て撤去され、暫くは気動車が区間運転で走っていましたが、北陸本線新疋田〜敦賀の複線化のため、柳ケ瀬線を上り線用地に使うこととなり敦賀駅への直通ができなくなりました。 1963(昭和38)年9月30日をもって疋田〜鳩原信号場休止、疋田〜敦賀はバス代行となりました。 そして翌1964(昭和39)年5月2日には柳ケ瀬線全線が廃止され、国鉄バス専用道となりました。
現在では専用道も一般道化され、バス路線も柳ケ瀬トンネルを越えなくなりました。 運行主体もJRからは離れて現在では自治体のコミュニティバスとなっています。 →地図


木ノ本を出て西寄りの余呉駅へカーブしていく現在線を「しらさぎ」が駆け抜けます。 かつての余呉町の中心駅であった中ノ郷駅は急行も止まっていましたが、新線開業後に置かれた余呉駅を特急列車は通過。 国道365号線を北進し中ノ郷駅に差し掛かる直前に残る橋台。 本線は車道のコンクリート化された側。 石積みで残る部分は側線のものと思われ、ある程度規模の大きい駅であったことを偲ばせます。


中ノ郷駅のプラットホームと駅名標レプリカ。ホームの片隅に先代の駅名標レプリカも転がっていたりします。 駅本屋はこの上に立っていたものと思われます。 プラットホーム下にある空間。 リバーから転轍機につながるロッドや腕木式信号機につながるワイヤがここから出ていたのでしょう。


中ノ郷駅では柳ケ瀬越えのための補機の連結解放が行われ、給水設備や転車台などもありました。 土倉鉱山からの鉱石輸送もありましたが、こちらは鉱山〜中ノ郷駅間にあった杉本(丹生)隧道がネックになり木ノ本駅への索道輸送に変更されました。
中ノ郷駅は柳ケ瀬線となった後は給水設備はおろか交換設備もなくなり棒線化。 それでも最後まで有人駅ではあったようです。
柳ケ瀬駅はバス停になり、駅舎の土台などが草に埋もれながら辛うじて残っているのが見られます。



国道365号線は敦賀を経由せず木の芽峠越え、廃線跡は県道140号線となって分かれ、全長1352mの柳ケ瀬トンネルへ吸い込まれます。 1882(明治15)年の開通当時は日本一長かったトンネル。しかし急曲線、急勾配など、悪条件が重なり窒息事故が多発、「魔の柳ケ瀬隧道」と呼ばれていたとか。
トンネルに隧道幕や排煙装置を付けたり、機関車に敦賀式集煙装置を装着して煙の被害を軽減していましたが、最終的には交流電化新線の開業がこれらの問題を解決しました。


土木遺産の銘板と伊藤博文による「萬世永頼」の隧道銘が保存されているので長い信号待ちの間に眺められます。 開通当時は敦賀からの極東航路と合わせ国際線としての役割を担う最重要路線の一つでした 排煙装置の土台や謎の水槽が残るトンネル上を国道365号線上から眺めた様子。 トンネル前に雁ケ谷信号場(柳ケ瀬線になった後駅に昇格。ただし側線がなくなり棒線化)がありました。



柳ケ瀬隧道の敦賀方坑口。現在は石積みの原型坑口が良く残っています。 因みに左右を北陸自動車道の高架に挟まれ肩身が狭そう・・・。


こちらにも土木遺産の銘板と漢文の銘が保存されています。 スイッチバックの刀根駅は痕跡がよくわからず、しばらく行くと北陸自動車道から路盤が分かれてきます。


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