新室駅は1933(昭和8)年4月1日に開業した貨物駅です。
大垣から西へ複線のように並行してきた揖斐方面と桑名方面の線路が分かれる場所の桑名方面の路線上に位置していました。
揖斐方面の室駅とは近接しており、同一駅構内と言ってもいい程でしたが、異なる区間上に位置することから別駅扱いになったようです。 新室駅には岐阜県信用組合購売連合会(農協)の農業倉庫が2棟あり、農産物の積込のための専用線(といっても短い側線程度)がありました。 駅業務は1956(昭和31)年9月(室駅旅客扱い開始、無人化?)まで室駅がまとめて行っていたようです。 新室駅は1950(昭和25)年頃までは毎日貨車の発着があったようですが、やはりトラック輸送に移行したためか扱いが減って行き、1972(昭和47)年7月1日に廃駅となりました。 |
大垣方から見た様子。右が揖斐方面で300m程先に室駅旅客ホームがあります。
左が桑名方面。
草地が側線跡と思われます。農業倉庫とプラットホームの跡は住宅地化。 貨物駅時代の室駅もここにあり、新室駅の業務も室駅の駅員が行っていたとか。 |
桑名方から見た様子。
夏場は草に埋もれて見辛いのですが冬場には旧プラットホームの石積みも見えます。
プラットホームを住宅の基礎に利用しているのがわかります。 |
新室の貨物発着は1970(昭和45)年度は発送なし、到着0t(四捨五入の数値なので0.5t未満はあった?)となっており、事実上使用されていなかったようです。 発送、到着品目は出ていませんが発送は農産物で到着は肥料などでしょうか? ※グラフは岐阜県統計書(岐阜県企画開発部統計課)より作成 |
JRの大垣電車区にほど近い住宅街の中にある室駅。
開業当初は田中カーバイド(イビデンに合併)の工場専用貨物駅でした。
当時の配線は分かりませんが現在より大垣駅寄りにあり、駅業務は新室駅のものも行っており、実質は一つの駅のような状態だったようです。
1922(大正11)年に東亜紡織の前身である中央毛糸の工場が誘致され、専用線も同時に敷設されました。 太平洋戦争が始まる1941(昭和16)年に中央毛糸は錦華毛糸と合併し東亜紡織となります。 大垣工場は多くの繊維関係工場が接収され軍需転換された中でも毛糸工場として残ることができました。 1943(昭和18)年には軍需が増えた特殊軽合金(イビデン系列。1934(昭和9)年に設立)の専用線も新設。 しかし1945(昭和20)年7月29日の空襲で両工場は米軍機に標的とされ被災、間もなく終戦を迎えました。 特殊軽合金専用線は1950(昭和25)年に撤去、1956(昭和31)年9月1日には駅が300m西の現在位置に移転し旅客営業を始めます。 一方で貨物扱いは鉄道離れが進み東亜紡織専用線は1964(昭和39)年に撤去されたそうです。 |
室駅旅客ホーム1面1線の最もシンプルな構造。 向かい側に側線1本分の敷地があります。 | 揖斐側に東亜紡織大垣工場があったのですが工場は既に無く、宅地化で面影は残っていません。 |
特殊軽合金専用線は大垣側(手前方向)に分岐していたようです。
専用線が存在していた期間が短く痕跡は皆無。
工場自体も左程大きなものではなかったようです。 |
大垣側に側線分岐跡らしい痕跡があります。 マンションの場所が工場跡のようですが何の痕跡もなし。配線など想像もつきませんね。 会社自体も戦後10年ほどで無くなり、日本軽金属に引き継がれています。 |
側線撤去は1964(昭和39)年ですが貨物の発着は1960(昭和35)年度を最後に無くなっています。
量も大して多くないので貨車が毎日発着していたわけでもなさそうです。 ※グラフは岐阜県統計書(岐阜県企画開発部統計課)より作成 |
参考: | 養老線開通70年のあゆみ(近畿日本鉄道西大垣駅編集) |
大垣市史(大垣市) | |
東亜紡織70年史(東亜紡織株式会社) | |
専用線一覧表(日本国有鉄道貨物局) | |
岐阜県統計書(岐阜県企画開発部統計課) |
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