東海硫安工業専用線 海軍第二燃料廠は敗戦後1945(昭和20)年10月16日に連合軍が接収。 紆余曲折があったものの燃料廠の設備を転用し化学肥料原料の硫安(硫酸アンモニウム)を生産をすることがGHQ(連合軍最高司令官総司令部)より認められ、1947(昭和22)年6月に日本肥料四日市工場が燃料廠跡の一角を利用して設立。 ところがその矢先の7月に日本肥料が財閥解体による閉鎖機関に指定されてしまいます。 そこで日本肥料は工場の現物出資という形で1948(昭和23)年11月に東海硫安工業を設立し業務を引き継ぎます。 燃料廠専用線の大部分も東海硫安工業専用線として利用されることになりますが、点線部分は放置されたままだったと思われます。 石原産業四日市工場専用鉄道 プラントの戦災と原料供給が無くなったことから銅精錬ができなくなりました。 また食料増産のため、銅精錬時の副産物であった過リン酸など化学肥料原料の生産を行います。 1953(昭和28)年頃からはチタン生産に乗り出し、酸化チタン工場が建設されています。 東邦化学工業、日本化成→三菱化成四日市工場専用線 東邦化学工業は東邦電力系の電気化学工業メーカーとして設立されカーバイド生産を行っていました。 戦時中に専用線は建設していたようですが完成していたのかは不明。 1950(昭和25)年には日本化成工業が東邦化学工業より用地を購入し進出。 1951(昭和26)年6月に四日市工場を設立。 同社は財閥解体で三菱化成工業が分割された内の1社で1952(昭和27)年7月に社名が元の三菱化成工業に戻っています。 1953(昭和28)年7月には経営不振の東邦化学工業を合併します。 当時は私有機を持っておらず、国鉄機が入換を行っていたようです。 |
塩浜貨物線と近鉄名古屋線が並走する海山道駅横から分岐していた専用線跡。工場外のレールは既に撤去されいます。 | 踏切の跡は簡単に埋めただけで残っています。 現役時をよく見ていた専用線だけに何とも寂しい光景です。 |
2枚目の画像に写っている踏切の現役時。DB252がコキ200を工場へと牽き込み中。
撓って地面に着いてしまう遮断棒がご愛敬。 撮影日:2010.08.13 |